群馬県の県庁所在地は「前橋市」です。小学生の頃、私も学校で習いました(県外出身なのでうろ覚えでしたが)。全国的にはそれで何も問題ありません。
しかし、県を代表する県庁所在地が前橋市にあることに納得していない人々がいるんです!それは、前橋市のお隣「高崎市」。この、前橋市vs高崎市の群馬県ナンバー1の座を巡るバトルがなんと140年以上も続いているんです!
高崎市は、いまや前橋市を超える人口を抱え、新幹線や高速道路といった交通の要所で、東京にも1時間圏内と利便性も高く、どんどん発展しており、名実共に群馬県を代表する都市です。
私は高崎市民でも前橋市民でもないので、あまり気にしたことがなかったのですが、いざ調べてみると高崎市の憤る理由が分かってきました。
まずは、群馬県の変遷と当時の県庁所在地をカッコで表記し、簡単に時系列でまとめたので見てみましょう。
群馬県の発祥・変遷
・1868年 (慶応4年)
『岩鼻県』が置かれる。(岩鼻)
・1871年 (明治4年)廃藩置県
10月24日、『高崎県』に改められる。(高崎)
10月27日、『群馬県』とする変更が行われる。(高崎)
・1872年(明治5年)
6月15日、群馬県庁が高崎から前橋に移る。(高崎→前橋)
・1873年(明治6年)
6月15日、群馬県の領域は『入間県』と合併し、『熊谷県』となる。(前橋→熊谷)
・1876年(明治9年)
8月21日、再び『群馬県』という県名が復活する(熊谷→高崎)
・1881年(明治14年)
太政官布告で群馬県庁の所在地を高崎から前橋に改定(高崎→前橋)
詳しい内容は後で記述しますが、なんと高崎市が県庁所在地だった事が何度もあったんです!しかも、もしかしたら「高崎県」になっていたかも知れないのです!!
ではまず、「群馬県」となった理由を解説していきます。
前橋の圧力があった!?
1871年に、廃藩置県がありました。それまでは高崎藩、前橋藩などがありましたが、「藩→県」となり、小幡県、伊勢崎県、前橋県、岩鼻県、沼田県、安中県、高崎県、七日市県をまとめて出来たがなんと「高崎県」だったのです。
しかし、これに納得しなかったのが前橋の人々。藩の時代は「高崎藩8万石」に対し「前橋藩15万石」。高崎が県になったと言っても前橋藩の発言力は強く、明治政府がそこを配慮し「高崎県」となったたった3日後に「群馬県」と改めてしまったのです!
高崎にとって悪夢は続きました。高崎城に作られるはずだった県庁が、富国強兵の国策によって建設予定地から外されてしまうんです、高崎城は軍が使うからダメだと・・。それにより、群馬県となった約半年後、前橋に県庁所在地が移ってしまったのです。
1度は取り戻したのだが、またも悲劇が!!
群馬県は1度、入間県と合併して「熊谷県」となり、県庁も熊谷にうつります(群馬県民としてはこれもビックリですが)。しかし、4年たたずに群馬県が復活しました。この時、群馬県の県庁が再度高崎に戻ってきたのです。
2度目の群馬県では、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に出てきた「楫取素彦(カトリ モトヒコ)」が県令(いまの県知事)となりますが、またしても高崎はやられたんです。
前橋は当時、生糸産業で街が活気づいており、群馬県をさらに豊かにするには商業の栄える前橋に県庁を移し、行政を集約した方が良い!との言葉に動かされ、前橋に県庁を移してしまいました。
また、高崎は軍によって高崎城を自由に使うことが出来ず、県の各部署が建物外に点在していて業務が思うように進まなかったのも移転の理由となっているそうです。
それでも納得いかない高崎の人々は楫取素彦に嘆願書を出し、県庁を高崎に戻すよう働きかけました。加熱する高崎民に対し、楫取素彦は「地租改正の事業が終わったら、県庁を高崎市に戻す」と話したと伝えられていますが、約束も虚しく前橋から高崎に県庁が戻ることはなく、いまに至っています。
その後の高崎と前橋
高崎市と前橋市は、周辺自治体を合併しながら張り合うように大きくなって行きました。合併の歴史とと人口の推移を表にしてみます。
年月日 | 高崎市 | 前橋市 |
---|---|---|
2000(国勢調査) | 239,904人 | 284,155人 |
2004.12 | 勢多郡(大胡村、宮城村、粕川村)合併 | |
2005.10(国勢調査) | 245,145人 | 318,584人 |
2006.1 | 群馬郡(倉渕村、箕郷町、群馬町)、多野郡(新町)合併 | |
2006.10 | 群馬郡(榛名町)合併 | |
2009.5 | 勢多郡(富士見村)合併 | |
2009.6 | 多野郡(吉井町) | |
2010(国勢調査) | 371,302人 | 340,291人 |
2014(国勢調査) | 370,751人 | 336,199人 |
2018.10(群馬県統計) | 369,656人 | 334,257人 |
平成の大合併により郡が無くなり、近隣の市に合併となったことで高崎市、前橋市共に大きくなりました。合併を終えた2010年に、高崎市は人口で前橋市を超え、群馬県ナンバーワンの座に輝きました。また、この合併によって最近の高崎市の盛り上がりにつながっています!では、その要因はなんでしょう。合併の内容を見ると理由がはっきり分かってきます。
前橋市に合併した勢多郡は、赤城山のすそ野にあたる山間部が多く、面積の割に人口が多くありません。合併前の勢多郡人口は約10万人ですが、勢多郡は渋川市、桐生市、みどり市に分割されてしまったので、実施前橋市となったのは約6万人。
一方、高崎市に合併した群馬郡、多野郡は主に平地で合併直前では約13万人おり、一番人口の少なかった鬼石町(藤岡市と合併)を除いて全てが高崎市となりました。
2010年をピークに、両市とも緩やかや人口が減少していきますが、前橋市の方がやや早いペースで人口減しています。この違いは、やはり合併した地域の違いです!
前橋市の合併
まずは前橋市。人口増加している地域に、以前から前橋市にある箱田、そして合併で前橋市になった旧・富士見村があります。
箱田は前橋市の南西にあり、平坦な土地で駅にも近く、高崎市と前橋市を繋ぐ大きな道も整備され、買い物にも便利な場所です。合併以前から住宅の増えていたエリアです。
また、旧・富士見村は合併前から大きな村で、前橋市の市街地に近い位置にあります。赤城山のすそ野なので平坦ではありませんが土地が安く、前橋市にいながら適度(結構)な田舎なので自然もあり人気です。ただやはり街中に遠く、周辺に高校がないので、仕事場も前橋市、高崎市に集中している事を考えると人口が増えにくいです。
高崎市の合併
一方、高崎市で人口増加している地域は群馬町です。高崎市の北部にあたり、渋川市を繋ぐバイパスが整備され交通の便が良いです。道路がバンバン整備され、すでに小学校、中学校の教室が足りない騒ぎをしている程です。
特に、菅谷町(すがや)と棟高町(むなだか)は勢いがあります。どちらも大きな道路があり、周辺には買い物に便利な場所で、なによりイオンモール高崎がとても近い事が利点の様です。イオンモール高崎の発展に伴って周辺が開発されているようで、まだまだ伸びる事が予想できます。
さらに、駅からはやや遠いため地価が安く、車社会の群馬ならではの発展ですね。
小話ですが、高崎市役所は高さ102mあり、不自然なほどの高さを誇っています。群馬県庁が153mで群馬県1位の高い建物ですが、2位が高崎市役所なんです。県庁問題を知っている県民からは「当て付けで高いビルを建てたんだ」と思われています。ちなみに、高崎市役所は映画「包帯クラブ」にも登場しており、見晴らしの良い展望フロアは素晴らしいですよ!
(前橋市役所は60mほどです)
最近では北陸新幹線が整備され、新幹線の駅がある高崎駅はさらに集客力を伸ばし、駅周辺にはアリーナやコンベンションホール、商業施設がバンバン建てられてきて、さらなる発展が期待出来ます。
前橋市には国や県の事業所が多く、企業の本社や支店などを置く会社も多いですが、家電量販店のヤマダ電機が前橋市から高崎市に本社を移転した事は大きな衝撃でした。アサヒビール群馬支社、JTB関東法人営業群馬支店なども高崎市へ移転しており、今後も高崎市へ集中していく事が予想されます。
今後について
群馬県民の見立てでは、勢いは断然高崎市なので、今後は前橋市との差がさらに広がる事が見込まれます。群馬県に政令指定都市を作ろうと、前橋市、高崎市、伊勢崎市、藤岡市など周辺自治体を合併!?なんて話もありますが、なかなか難しそうな関係性ですね。
コメント
私は、生粋の京都人ですが、群馬県全体の経済発展を 考えたら 今となっては、高崎市と前橋市は、合併しない方が 良いのでは ないか? と思います。
高崎市は、県庁を 前橋市に移される前に 何故 高崎駅の東側に 新県庁の建物を 建てなかったのですか?
明治の生糸で栄えた前橋市の財力は 確かに 高崎市にとっては 経済的な脅威でしたね。
私は、生粋の京都人ですが、私個人の群馬県の都道府県魅力度ランキングでは、全国で 2位です。
高崎市、前橋市の発展は、もとより、太田市や伊勢崎市、桐生市、渋川市、藤岡市、富岡市、沼田市他 群馬県全体の発展を 願っています。
その為には 群馬県民全員 1人1人が 各自 強烈な群馬愛=上州愛を 持たれること です。
全国を知る京都府民から 見て、群馬県の都道府県魅力度ランキングは、北海道1位で、2位群馬県で、3位東京都になります。 それほどまでに 全てに渡り 群馬県は 魅力満載の県なのです!